和歌の解説

秋の田のかりほの庵の苫をあらみ我が衣手は露に濡れつつ 天智天皇

秋の田のかりほの庵の苫をあらみ我が衣手は露に濡れつつ 天智天皇

〈原文〉

秋の田のかりほのいほとまをあらみわが衣手ころもでつゆにぬれつつ

〈現代語訳〉

秋の田のそばにある粗末な仮小屋は、苫葺とまぶき屋根の目が粗いので、私の衣の袖は、隙間から漏れる冷たい夜露で濡れてしまっているよ。

解説

藤原定家編纂の『百人一首』の最初は、飛鳥時代の天皇である天智てんじ天皇の和歌で始まります。

天智天皇は、第38代天皇で、626年に生まれ、671年に亡くなったとされます。

皇太子時代には、中大兄皇子なかのおおえのおうじと呼ばれ、645年の乙巳いっしの変で、中臣鎌足とともに蘇我氏を滅ぼし、大化たいかの改新という政治改革を行ったことでも知られています。

大化元年(645年)6月、中大兄皇子なかのおおえのおうじ中臣鎌足なかとみのかまたりらが蘇我氏を打倒して開始した、古代の大政治改革。孝徳天皇を立てて都を難波に移し、翌年、皇族・豪族の私有地・私有民の廃止、地方行政組織の確立、戸籍・計帳の作製と班田収授法の実施、租・庸・調などによる統一的な税制の実施の四か条から成る改新の詔を公布し、中国の律令制度にならって公地公民制に基づく中央集権的支配体制の形成をめざした。

出典 : 大化の改新|コトバンク

また、母親の斉明さいめい天皇崩御の後、天智天皇は都を飛鳥から近江にうつすという決断も実行しています。

服装は質素で、倹約家。人々の生活を共に分かち合う天皇だったとして仰がれていたそうです。

後世の人々にとっては、人々を思いやる政治を行った天皇として語り継がれていたのでしょう。

この和歌では、苫葺き屋根(参照 : 苫葺きのこと)の目が粗く、夜更けにその隙間から冷たい露が落ち、袖が濡れている農夫の様子が描かれています。

秋の稲の刈り入れどき、貧しい農民が、収穫物を鳥獣から守るために、田んぼのそばに粗末な仮小屋を作り、寝泊まりして見守っていたことの苦労が詠まれています。

ただし、農夫が、苦労のなかで雨漏りをし、袖が濡れてわびしい、といった悲壮感の漂うものではなく、もっと静寂や祈りに近い歌と言えるかもしれません。

秋の恵みと、その恵みを収穫するの農夫の歌。

この歌は、もともと『万葉集』の作者不明の「秋田刈る仮廬かりほを作り我が居れば衣手寒く露ぞ置きにける」という歌を元歌にし、改変され、後世に伝わります。

やがて『後撰ごせん集』の秋に、「題知らず、天智天皇御製」として収録されて以降、天智天皇が農民を思いやって詠んだ和歌とされるようになります。

天智天皇は、大化の改新で、班田収授法はんでんしゅうじゅのほうを制定(本格的な成立は、律令制度制定の701年より)し、農民に田地を分け与える代わりに、収穫した稲を徴収するという制度を整えます。

人々から集めた尊敬や、実行してきた政治的な背景もあり、天智天皇が、農民たちの苦労を思いやってこの歌を作ったと考えられるようになったのでしょう。

藤原定家は、『百人一首』の原型と考えられる『百人秀歌』でも、この歌を冒頭に据えています。

また、桓武かんむ天皇以降、平安時代における天皇は、天智天皇の子孫がその座を占め、平安王朝における血統のルーツでもあり、平安文化を謳歌する貴族たちにとっては、特に尊ぶべき存在だったようです。

定家にとっても、そのことが頭にあり、この天智天皇の歌を最初に持ってきたのではないかという指摘もあります。

天智天皇は、日本書紀に1首、万葉集に4首の和歌が収録される万葉歌人でもあります。

〈用語の意味〉
かりほ : 田を見守るための粗末な小屋  : すげちがやなどで編んだ、こものようなもの。小屋や舟を覆って雨露をしのぐのに用いる 衣手 : 衣服の袖、転じて着物全体の意もある